甲州街道小原宿本陣(旧清水家宅・相模原市)

更新日:2012/01/26
小原宿の本陣(旧清水家住宅)は、甲州街道(国道20号線)を八王子から相模湖に向かって進み大弛峠を越えて傾斜が無くなった辺りにあります。
江戸時代には、小仏峠を越えた最初の宿場が小原宿でした。ちなみに八王子からの宿場は、「八王子」「駒木野」「小仏」「小原」の順になります。
小原宿は日本橋から十五里二十一町余りの所にありました。
甲州街道と小原宿の位置関係
小原宿は、甲州街道の起点の日本橋からかぞえて9番目の宿場町で、小仏峠を挟んで、武州(武蔵国)と相対しています。日本橋からの宿場をあげると「日本橋」「内藤新宿」「高井戸」「布田五宿」「府中」「日野」「八王子」「駒木野」「小仏」「小原」の順になります。
日本橋から八王子までは全て市街地となっていて宿場の面影は残るべくもありませんが、八王子市内の駒木野には小仏の関の跡があります。小仏の関の跡には紅梅の梅が植えられていて、2月上旬から3月にかけて花を咲かせます。駒木野や小仏は自転車で走ると、小仏バス停までのピストンとなります。ただ、駒木野や小仏には宿場町の面影を残す建物が残念ながら有りません。
(東京側の日野市に日野宿本陣の建物が保存されています)
本陣について
江戸時代の神奈川県(相州、相模国)には甲州街道と東海道と言う二つの幹線道が通っていましたが、26軒有った本陣のうち、現在、本陣の建物が保存されているのはこの小原宿だけだそうです。それだけ明治維新以降の変化が、神奈川県では激しかったと言うことでしょう。
本陣とは、江戸時代、参勤交代で大名が国元と江戸を往復する時に、大名が泊まる宿の事です。本陣の他に脇本陣がありこれには身分の高い家臣が泊まりました。身分の低い家臣は旅籠などに分宿しました。旅籠は小原宿には7軒有ったそうです。(下野の日光例幣使街道の宿場では大名の他に、京都からの使節の公家も本陣に泊まりました)
小原宿のある甲州街道を参勤交代に利用した大名は信州の大名で、高島藩、高遠藩、飯田藩の三藩です。他に、甲府勤番と呼ばれる幕臣の役人が利用していました。本陣に泊まれるのは、おそらく大身の旗本でしょう。
清水家系譜と建物についての考証

小原宿本陣の当主は、小田原の後北条氏の清水隼人之介の末裔と言われています。代々、庄屋と問屋(といや)を兼ねていました。
建築年代を示す文献の資料は無いそうですが、建築様式から推測して18世紀末期から19世紀初期にかけての建築と推定されています。建物の規模は、間口十二間(1.8m*12=約21.6m)に奥行きが七間(1.8*7m=約12.6m)、約272平米です。
建物は三階建てで、二階と三階では養蚕を行っていました。江戸時代の日本の家屋に共通したこととして、階段はとても急峻です。階段があまりにきついので今は別に歩きやすい階段が設けられています。
二階は清水家の人の居住空間の上に設けられた中二階となっています。三階は間仕切りがない広い一室に造られていて、板敷きとなっています。養蚕に使っていた機具が置かれています。
三階は、構造的には天井裏にあたる箇所になり、屋根の裏地を見ることが出来ます。旧清水家の建物の屋根は外観はトタン葺きとなっていますが、これは茅葺き?の屋根の上にトタン屋根を葺いただけです。大正時代や昭和初期に建てられた茅葺きの農家では良くあることで、屋根の寿命を持たせるためにトタン屋根を葺いていると聞いています。
旧清水家宅の間取り図

旧清水家宅の間取り図です。
玄関を中にして、左側が奥座敷と呼ばれる、大名と家臣の宿泊空間。右が清水家の人の居住空間です。
大名が利用していた奥座敷

大名や家臣の泊まる空間は、上段の間、中の間、控の間の三部屋と、縁側にあたる入側から成り立っています。大名自身は上段の間に泊まりました。
上段の間から見た築山

上段の間や入側からは庭の築山が見える様になっていますが、築山のほとんどが無くなってしまっているので、往事を忍ぶことは難しいかも知れません。
大名用の厠

現代のホテルや旅館でもお客用と従業員用のトイレは別に造られているところもありますが、小原宿の本陣にも清水家の人が利用する厠と、泊まった大名や家来が利用するトイレの二つが設けられています。
大名の厠は使えないですが、家庭用のトイレは改築されていて、見学者用のトイレとなっています。現代では珍しいくみ取り式で、おつりが来るトイレだそうです。
籠

参勤交代の折に大名が使用した籠かどうか分かりませんが、しっかりとした作りの籠が座敷に展示されていました。
驚いたのは大きさがとても小さいこと。平均身長173cmの現代の男性では座っても頭が使えるはずです。
江戸時代の日本人は、身長が現代よりも小さかったと言われるのが、この籠を見ると分かります。
ちなみに、一般の旅行者が利用をした籠も、玄関に展示されています。
居住空間

建物の向かって右側にある清水家の居住空間です。
間取り図の「広間」「茶の間」です。
囲炉裏

板の間に茣蓙を敷いて、家族が囲炉裏を囲みます。
囲炉裏の縁には、ここに誰が座ったかが書かれています。
男尊女卑、長幼の順の厳しかった封建時代を感じさせてくれます。
三階の養蚕の部屋

構造上は屋根裏にあたる三階の養蚕に利用されていた部屋です。
裸電球がぶら下がっていますが、とても薄暗い部屋で、しきりはなく、端から端まで一つ部屋となっています。
これだけ薄暗い中で、作業をしていたのかと驚かされます。江戸時代の事なので、当山ながら電灯はありません。蝋燭も高価だったので養蚕のためには使えなかったでしょう。
この部屋に、養蚕に使われた機具が置かれています。
萱葺きの屋根

三階に登って上を見上げると、萱葺きの屋根を内側から見ることが出来ます。
全景

小原宿本陣の旧清水家宅の全景です。
小原宿本陣旧清水家宅の保存の由来

この旧清水家住宅は昭和45年頃まで清水家の人が居住していたそうです。その後、敷地の中に別棟を建てそこに移り住みました(写真の建物)。
この本陣の建物や敷地は、自民党時代の竹下内閣の時の「ふるさと一億円交付金」によって、当時の町が買い取ったそうです。
甲州街道小原宿本陣(旧清水家宅・相模原市)の地図