浦賀の幕末の跡

更新日:2007/04/08
江戸時代末期の混乱、幕末維新は浦賀から始まりました。浦賀沖にペリー提督率いるアメリカ東洋艦隊が現れ江戸幕府に対して開国を迫り、その対応が腰砕けだったことから与論が沸騰し、明治維新まで一気に時代が進みました。
中島三郎助の招魂碑

浦賀港を見下ろす愛宕山にこけむした石碑があります。明治24年に建立された招魂碑で、題字は榎本武揚のものです。
幕末維新の動乱の時代を象徴する人物が浦賀にいました。名を中島三郎助と言います。ペリー艦隊が来航したときには浦賀奉行所の与力として応対し、のち長崎に海軍伝習所が設けられると勝海舟らと共に第一期生として学びました。時代が変転して戊辰戦争が勃発すると、榎本武揚率いる旧幕府軍に身を投じ、戊辰戦争最後の激戦地、函館戦争で生涯を終えました。
中島三郎助は函館の市街戦で戦死しました。函館市には中島町の名が残り、その一角に三郎助の終焉の地の石碑が建てられています。
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咸臨丸、出航の地

ペリー提督の来航の7年後、日米修好通商条約批准書交換のために新見豊前守正興を代表とした使節団が、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗船してワシントンに出発しました。
この使節団の護衛を目的に、幕府は軍艦咸臨を派遣しました。司令官は木村摂津守(芥舟)、艦長は勝麟太郎(海舟)、木村の従者の名目で福沢諭吉が乗り込んでいました。日本人の手だけで太平洋を横断したといわれています。
幕末維新の動乱を乗り越えた咸臨丸は、運送船として北海道の開拓物資や人員の輸送に当たっていましたが、あるとき時化に遭い津軽海峡に沈みました。現在、津軽海峡の北海道の岸で静かに眠っています。
咸臨丸の終焉の地
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ペリー提督上陸の碑

浦賀に上陸したペリー提督を記念する石碑が、明治34年に建てられていました。揮毫は伊藤博文です。
浦賀の幕末の跡の地図